植民地進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 21:54 UTC 版)
創業期における東拓株主の構成は「日韓共同事業」的色彩の中に皇室による持株支配が徹底していたが、昭和初期に入ると三井銀行や岩崎久弥(三菱財閥総帥)、安田善次郎(安田財閥総帥)、大倉喜八郎(大倉財閥総帥)、山本条太郎(三井物産常務)が群小株主となり、経営に関して微々たる地位を占め始めた。東拓金融部門においては不動産評価の理論体系が形成され、これと同時に朝鮮農工銀行の発行する農工債券の引受もすることになっていた。不動産金融による農業資金供給の制度を導入した効果は、低利資金供給のさきがけをつくり、日本資本主義の内部に帝国主義的独占が形成されることとなった。 1912年に成立するまで社債発行は困難を極め、事業計画全般を制限した。1913年3月、日仏銀行(仏:Banque Franco-Japonaise, パリバ・日本興業銀行・インドシナ銀行が創設)が1935万円を引受けた。南洋興発発足から募集が積極性を増した。1923年3月、ナショナルシティ銀行が3991.9万円を引受けた。1928年11月、またナショナルシティ銀行が再び同額を引受けた。 こうした資金と横浜正金銀行を後ろ盾に満州国へ関東都督府(関東庁)、朝鮮総督府、南満洲鉄道と一体になって進出。ハルビン・大連・奉天等の植民都市建設計画を構想し、また日本軍監理下にあった中東鉄道を乗り換えて日本軍占領下のシベリア半島を視察。シベリア撤兵とソビエト連邦の成立によって、東拓は営業に乗り出す。以後、営業区域を関東州・満州(中国東北部)・蒙古・華北・南洋諸島に拡大し、更にマライ半島の開発にも乗り出した。 1938年(昭和13年)には、朝鮮電力・東拓鉱業・朝鮮鉄道・東洋畜産等の約52社の株式を保有。更に、台湾拓殖と南洋拓殖を吸収合併させ、資本金5億円で新たに国策会社の「南方拓殖株式会社」を創立した。満州事変以後の昭和恐慌による円安により打撃を受けた。太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると、政府の南進論政策に伴い、南洋投資に傾斜。大日本帝国海軍、南洋庁といった政府機関を後ろ盾に、「南洋群島開発計画」に寄与していく。 1943年時点でバンジャルマシン(蘭印拓殖会社)とジョホール(英領マラヤ)のゴムプランテーションを直営していた。
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