ルクセンブルク家
(ルクセンブルク朝 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 09:23 UTC 版)
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ルクセンブルク家(ルクセンブルクけ、独:Haus Luxemburg, 仏:Maison de Luxembourg, チェコ語:Lucemburkové)は、現在のルクセンブルク市を発祥とした中世ヨーロッパの貴族、王家。現在のルクセンブルク大公家であるナッサウ=ヴァイルブルク家(ルクセンブルク家ともいう)と直接のつながりはないが、婚姻関係を通じてはつながりはある(後述)。
ルクセンブルク家と言っても同じ男系が続いたわけではなく、ルクセンブルク=アルデンヌ家(ザルム=アルデンヌ家とも)、ナミュール=ルクセンブルク家、リンブルク=ルクセンブルク家の3家に分けられる。ルクセンブルク家は3家の総称でもあるが、特に神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出した最後の家系を指す場合が多い。
歴史
963年にアルデンヌ伯ジークフリートがこの地にあったルクセンブルク城を本拠地に定め、その子孫が11世紀にルクセンブルク伯の位を神聖ローマ皇帝から与えられた。神聖ローマ帝国の域内とはいえ、フランスにも近かったため、ルクセンブルク伯はフランス王の封建家臣にもなっていた。1081年には、ルクセンブルク伯家出身のザルム伯ヘルマンが、皇帝ハインリヒ4世の対立王に選出されている。
大空位時代の後、皇帝権力の強化を望まないドイツ諸侯は、当時は弱小な伯爵家に過ぎなかったハプスブルク家やナッサウ家から皇帝を選出した。1308年、帝国諸侯でありながらフランス王の封臣でもあったルクセンブルク伯ハインリヒ7世が擁立されたのも、同じ事情からだった。しかしハインリヒ7世は優れた人物で、1309年にはスイスの一部を領有し、翌年には息子ヨハンとボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカ(アルジュビェタ)との縁組により同国の王位を獲得するなど、自家の領土を短期間のうちに拡大させた。また、弟バルドゥインはハインリヒの皇帝選出に先立つ1307年に選帝侯の一人であるトリーア大司教となっており、兄ハインリヒやその孫カールの皇帝選出に貢献している。こうして、ルクセンブルク家はドイツにおける最有力の勢力となった。
ボヘミア王となったヨハンは皇帝には選出されなかったが名将として知られており、ヨハンの息子カール(カール4世)は1346年に皇帝に選出され、ボヘミア王とルクセンブルク伯も継承した。カール4世は金印勅書を発布して帝国の混乱を収拾する一方、自家の勢力拡大と帝位の世襲化にも努めた。なお、ルクセンブルク伯位はカール4世から弟ヴェンツェル1世に譲られた後、1354年にルクセンブルク公へと格上げされ、カールの息子ヴェンツェル(2世)に継承された。
カール4世の後は2人の息子ヴェンツェル、ジギスムントが皇帝、ボヘミア王、ルクセンブルク公、さらにブランデンブルク選帝侯を継承する。しかしいずれも凡庸な人物で、代々の無理な拡大政策もたたってドイツやボヘミアの諸侯の離反を招き、さらに一族内でも対立を起こして権力を失っていく。ジギスムントはハンガリー王位を獲得する一方、ブランデンブルク選帝侯位をホーエンツォレルン家に譲っている。ヴェンツェル、ジギスムントとも男子がなく、ヨープストら傍系にも男子の後継者がいなかったためにルクセンブルク家は断絶し、同家の有していた所領や位の多くは、やがてジギスムントの娘婿であるアルブレヒト2世らを経てハプスブルク家が獲得することとなった。ルクセンブルク公領も例外でなく、一族のエリーザベト・フォン・ゲルリッツからブルゴーニュのフィリップ善良公へ渡った後、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の断絶と共にハプスブルク家が継承した。
ただし、ルクセンブルク伯ハインリヒ6世(ハインリヒ7世の父)の弟であるワレラン1世を祖とする分家(リュクサンブール=リニー家)は本家が絶えた後も存続しており、この家系出身のリニー伯ジャン2世・ド・リュクサンブールはジャンヌ・ダルクを捕縛監禁したことで知られる。最後の当主であるサン=ポル伯ピエール2世・ド・リュクサンブールが男子を残さず死去したことにより、ルクセンブルク家は完全に断絶するが、姻戚関係を通して分家はなおも存続、17世紀にフランソワ・アンリ・ド・モンモランシーはリュクサンブール・ピネー家の女性と結婚してリュクサンブール=ピネー=モンモランシー家を創設、子孫はモンモランシー公も継承して20世紀まで続いた。
ピエール2世の娘マリー・ド・リュクサンブールはブルボン家分家のヴァンドーム伯フランソワに嫁いでいるが、フランス王アンリ4世はその曾孫である。アンリ4世はまた、ボヘミア王ヨハンの娘ボンヌがフランス王ジャン2世との間にもうけた子のうち少なくとも2人(シャルル5世、シャルル悪人王の妃ジャンヌ)を通じて、ルクセンブルク家本流とも血のつながりがある。そしてその子孫であるパルマ公子フェリックスはルクセンブルク大公女シャルロットと結婚して、現在のルクセンブルク大公家に至っている。
ルクセンブルク家の人物
括弧内は生没年。
- ハインリヒ7世(1275年 - 1313年) 神聖ローマ皇帝、ルクセンブルク伯。
- バルドゥイン(ボードゥアン)(1285年 - 1354年) ハインリヒ7世の弟。トリーア大司教。
- ヨハン(1296年 - 1346年) ハインリヒ7世の息子。ボヘミア王、ルクセンブルク伯
- マリー・ド・リュクサンブール(1304年 - 1324年) ヨハンの妹。フランス王シャルル4世の妃。
- ベアトリクス(1305年 - 1319年) ヨハンの妹。ハンガリー王カーロイ1世の妃。
- ボンヌ・ド・リュクサンブール(1315年 - 1349年) ヨハンの娘。フランス王ジャン2世の妃
- カール4世(1316年 - 1378年) ヨハンの息子、ボンヌの同母弟。モラヴィア辺境伯、のち神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ルクセンブルク伯。
- ヨハン・ハインリヒ(1322年 - 1375年) ヨハンの息子、カール4世の同母弟。チロル伯、モラヴィア辺境伯。
- ヴェンツェル1世(1337年 - 1383年) ヨハンの息子、カール4世の異母弟。ルクセンブルク公、ブラバント公。
- ヨープスト・フォン・メーレン(1351年 - 1411年) ヨハン・ハインリヒの息子。モラヴィア辺境伯、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公、ローマ王(共同統治王)。
- ヴェンツェル(2世)(1361年 - 1419年) カール4世の息子。神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公。
- アン・オブ・ボヘミア(1366年 - 1394年) カール4世の娘、ヴェンツェルの異母妹。イングランド王リチャード2世の妃。
- ジギスムント(1368年 - 1437年) カール4世の息子、アンの同母弟。神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王、ブランデンブルク選帝侯、ルクセンブルク公。
- ヨハン・フォン・ゲルリッツ(de, 1370年 - 1396年) カール4世の息子、ジギスムントの同母弟。ゲルリッツ公。
- エリーザベト・フォン・ゲルリッツ(1390年 - 1451年) ヨハン・フォン・ゲルリッツの娘。ルクセンブルク女公。
- エリーザベト・フォン・ルクセンブルク(1409年 - 1442年) ジギスムントの娘。神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の妃。
系図
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ナミュール=ルクセンブルク家 |
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ティボー1世 バル伯 |
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エルメジンデ ルクセンブルク女伯 |
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ヴァルラム3世 リンブルフ公 |
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クニグンデ (ロレーヌ公フェリー1世娘) |
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バル伯家 |
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ハインリヒ5世 ルクセンブルク伯 |
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リンブルフ公家 |
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ハインリヒ6世 ルクセンブルク伯 |
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ワレラン1世 リニー伯 |
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ハインリヒ7世 ローマ皇帝 ルクセンブルク伯 |
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バルドゥイン トリーア大司教 |
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リュクサンブール=リニー家 |
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ヨハン ボヘミア王 ルクセンブルク伯 |
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マリー フランス王シャルル4世と結婚 |
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ベアトリクス ハンガリー王カーロイ1世と結婚 |
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マルガレーテ バイエルン公ハインリヒ14世と結婚 |
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ボンヌ フランス王ジャン2世と結婚 |
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カール4世 ローマ皇帝 ボヘミア王 ルクセンブルク伯 |
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ヨハン・ハインリヒ チロル伯 モラヴィア辺境伯 |
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アンナ オーストリア公オットーと結婚 |
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ヴェンツェル ルクセンブルク公 ブラバント公 |
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マルガレーテ ハンガリー王ラヨシュ1世と結婚 |
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カタリーナ オーストリア公ルドルフ4世、バイエルン公兼ブランデンブルク選帝侯オットー5世と結婚 |
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エリーザベト オーストリア公アルブレヒト3世と結婚 |
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ヴェンツェル ローマ王 ボヘミア王 ブランデンブルク選帝侯 |
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アン イングランド王リチャード2世と結婚 |
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ジギスムント ローマ皇帝 ハンガリー王 ボヘミア王 ブランデンブルク選帝侯 ルクセンブルク公 |
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ヨハン ゲルリッツ公 |
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マルガレーテ ニュルンベルク城伯ヨハン3世と結婚 |
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ヨープスト ローマ王 ブランデンブルク選帝侯 ルクセンブルク公 モラヴィア辺境伯 |
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エリーザベト ローマ王アルブレヒト2世と結婚 |
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エリーザベト ルクセンブルク女公 |
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参考文献
関連項目
ルクセンブルク朝(1310年-1437年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 16:57 UTC 版)
「チェコの歴史」の記事における「ルクセンブルク朝(1310年-1437年)」の解説
詳細は「ルクセンブルク家によるボヘミア統治」を参照 プシェミスル朝が断絶するとドイツ系のルクセンブルク家がボヘミア王を世襲した。ドイツ人の外来王朝のもとで、一層のドイツ化が進んだ。国王カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世に即位すると、1348年にプラハ・カレル大学を創立するなど学芸に力をいれ、プラハは当時のヨーロッパ文化の中心となった。 15世紀に入り、教会大分裂が起き、カトリックが動揺していた頃にプラハ・カレル大学の総長のヤン・フスが英国のウィクリフの影響をうけ教会改革を断行。教会を牛耳っていたドイツ人を追放、教会世俗権力を否定した。これが、ローマ教皇の逆鱗にふれ、フスとプラハ市は破門され、1414年のコンスタンツ公会議でフスは異端として火刑となった。フスの教義はボヘミア人と一部ポーランド人の広範な支持を得ていたため1419年にはフス戦争が勃発。ボヘミアにおけるフス派は穏健派(ウトラキスト)と急進派(ターボル派)に分かれて対外戦争と内部抗争を長期に亘り続け、17年後1436年に皇帝ジギスムントとボヘミア代表団の間でイーフラヴァ協約が締結され、フス戦争は終結した。その翌年にはジギスムントは死去。ルクセンブルク王朝は断絶し、神聖ローマ皇帝にはハプスブルク家のアルブレヒト2世が即位する。
※この「ルクセンブルク朝(1310年-1437年)」の解説は、「チェコの歴史」の解説の一部です。
「ルクセンブルク朝(1310年-1437年)」を含む「チェコの歴史」の記事については、「チェコの歴史」の概要を参照ください。
- ルクセンブルク朝のページへのリンク