花井紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/30 20:39 UTC 版)
江戸時代の花井村では和紙生産が盛んで、「花井紙」として知られていた。隣接する九重村でも生産され、同じく花井紙と呼ばれた。花井紙は関ヶ原の戦いで西軍方に付いて敗北した武将の姫が、貞流尼公という名の尼僧となって花井に住み、布教の傍ら紙漉きの方法を伝授し、生産方法が普及したと伝えられる。花井紙生産は江戸時代を通して花井の村人の生業ないしは副業として続き、永代保存用の証文、紙衣、蚊帳(紙帳)、布団、和傘などに利用された。特に花井紙の紙衣は『和漢三才図会』で奥州白石、駿州ノ阿部川、摂州大坂と並び最高品質であると評されたほどで、熊野市育生町尾川に伝わる大庄屋文書群の中に「花井紙の紙衣を3着送ってほしい」という江戸からの書状が含まれている。 1881年(明治14年)に東京・上野公園で開かれた第2回内国勧業博覧会に「十文字紙」として花井紙が出品されたという記録がある。この記録によれば、花井紙の原料は花井村で生産したコウゾの皮であった。しかし近代以降、洋紙・洋傘の普及により市場を失い、花井紙の生産は衰退し、第二次世界大戦前までには全戸が廃業した。
※この「花井紙」の解説は、「紀和町花井」の解説の一部です。
「花井紙」を含む「紀和町花井」の記事については、「紀和町花井」の概要を参照ください。
- 花井紙のページへのリンク