補説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:28 UTC 版)
この第二次太田城の戦いは、「その実態については明確でない点も多い」と[誰が?]している。その理由として、堤防の工事期間の短さが挙げられている。大堤防は城の周囲300m、総延長6kmにも及ぶ巨大なものであったが、3月26日から工事が開始され4月1日に完成し、わずか5日間で築いた事になる。「現在の優れた工事技術でも数か月はかかるのに、平地にこれだけの堤防を短期間で仕上げたというのは疑問である」と記しており、完成できた理由として、紀ノ川はよく氾濫しておりもともとあった堤防を利用したという説を紹介している。「築造に投入した人数は、二十六万九千二百余『太田水責記』[要文献特定詳細情報]とも、四十六万九千二百余『紀伊属風土記』[要文献特定詳細情報]ともいうが、延べ人数であるにしても当時の人口を考えれば誇大にすぎるだろう」と工事に投入された人数の多さにも疑問が投げかけている。また「太田城水攻めは完新世段丘の崖と自然堤防(ポイントバーを含む)を利用して行われ、現存する出水提によって、宮井川(大門川)を切戸口付近で堰き止めただけの小規模なもので、太田城は出水提の南側(上流側)、宮井川対岸の太田の小字「小向」付近であったと推定する」と従来言われていた説よりも、小規模なものであり、しかも、太田城の場所は、来迎寺に太田氏の妻「砂の墓」があり、小字(こあざ)「城跡」の伝承から1921年(大正10年)に「太田城址碑」が建てられた場所は、太田集落があった場所としながらも、太田城は秀吉が築いた出水堤防の南側であったとしている。 またこの戦いの起因ついても、秀吉方の史料と太田方の史料では隔たりがある。秀吉方の史料『紀州御発向之事』[要文献特定詳細情報]では、最初太田衆より詫び言を申しており、許しておいたところ、よからぬ者が集まって来て、軍需物資を奪ったり、人足を殺したりしたので懲らしめのために水攻めしたとあり「秀吉朱印状」にも同様の記述がされている。また、秀吉の使者として中村一氏が太田城を訪れ、開城勧告をした時に「従わなければ攻め滅ぼす」とした態度が気に入らなかったのか、中村一氏配下の53名を討ち捕ってしまい、この53名という数字が恨みの数字となり、講和の条件も同数の53名の首を要求したという異説もある。また太田方の資料では、3月25日中村一氏が使者として降伏を勧告したが「その気はないから早く馬を向けられるがよかろう」としたため、先手の53名を討ち取ったとしている。秀吉方の史料と太田方の史料では大きな隔たりがある。 更に史料の中にも問題がある。播磨良紀によると[要文献特定詳細情報]、「太田家文章」は覚書の形を取りながら、文末に「恐々謹言」と書き止め文言となっていて形式がおかしいとし、また前野長康の花押がこの頃のものではない為、後世に作成されたとしている。すべての記述が史実と相違するかは不明だが、小和田哲男も「その可能性が高い」としている。 第二次太田城の戦いは不明確点が多いという他に、秀吉朱印状にある第三条は多くの研究者[誰?]から注目されており、「民衆の武装解除であり、秀吉が目標とする領主制の最終的な到達段階とは最も対極に位置する「地域的一揆体制」の否定そのものといってよい」とされている。また前田玄以に宛てた羽柴秀吉の書状によると「鉄砲・腰刀以下を取りて免じておくところもこれあること候」と記されている。これは太田城が落城後1カ月後の事で、籠城していた百姓のみならず雑賀衆・根来衆の地百姓全体に対してである。この刀狩は1588年(天正16年)におこる秀吉の刀狩の先駆で「一揆の武装解除といった戦後処理のにとどまらず、長期的な展望にたっての身分政策を指向していたと考えられ、全国的な兵農分離政策の先駆けとして、重要な意味を持っていたといわなければならない」としている。
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