近代日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:11 UTC 版)
日本においては、欧州での大流行から1世紀遅れた江戸時代末期から明治期にかけて、結核は国民病・亡国病とまで言われるほど猛威をふるった。特に犠牲がひどかったのは、紡績工場で働く女工であった。たとえば、製糸業が盛んで多くの女工を抱えた福井県においては、1920年の15歳女性の結核死亡率は人口10万人あたり763人にまで達した。細井和喜蔵の『女工哀史』にみられるように、ここでも長時間労働や深夜業による過労・栄養不足や集団生活が大きな原因となっているが、糸の保護のため湿度が高い工場内の環境も結核菌の増殖をもたらした。 日本における結核による死亡者のピークは、スペインかぜ流行下の1918年であり、このときの結核死亡率は人口10万人あたり257人であった。その後結核死亡率は減少するが、1930年代の十五年戦争による戦時体制下においては、徴兵されて狭い兵舎で集団生活を送る若い男性を中心に結核が蔓延し、再び上昇に転じる。 日本では1889年に兵庫県須磨浦(神戸市須磨区)に最初の結核療養所が創設され、1911年には有志のクリスチャン医師らによって日本白十字会が設立され、結核回復者らが自然療養社を設立して療養の指導と実践を唱導するなど、結核予防のための民間運動が早くから行われており、政府も1914年肺結核療養所の設置及国庫補助に関する法律及び1919年同法を吸収する結核予防法(旧)を制定し、補助金等の支援をしていた。しかしながら、国立結核療養所官制の公布はようやく1937年になってからのことで、それによって茨城県那珂郡に最初の国立結核療養所として村松晴嵐荘(現在の国立病院機構茨城東病院)が営まれた。 第二次世界大戦が終結して戦時体制を脱したことにより、1948年までに結核患者の過剰死亡はようやく解消した。1942年には工場法施行規則が改定され、結核予防を目的とした健康診断の実施が工場主に義務付けられた。これは現在の労働安全衛生法による健康診断に引き継がれている。1935年から1950年までの15年間、日本の死亡原因の首位は結核であり、「亡国病」とも称された。 1951年労働者のみならず、全国民に向けた予防施策に関する結核予防法が制定され、従来の隔離治療等に加え、BCGの予防接種の推進等が定められた。なお、同法は2007年廃止され、感染症法(BCGについては予防接種法)へ統合された。 このように結核は、長い間日本人の「国民病」であった。死亡率は往時の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄100以下にまで減少しているが、2018年の結核罹患率は10万人あたり12.3人と、10万人あたり10人以下に抑えられている欧米の先進国と比較して高い水準にあり、未だ日本は結核の中蔓延国に位置づけられている。1997年には、新規発生結核患者数が38年ぶりに、罹患率が43年ぶりにそれぞれ増加に転じ、1999年7月26日に当時の厚生省が「結核緊急事態宣言」を出す事態となっている。
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